2011年8月10日水曜日

タッチ人形 営業中!

Posted by Google プレイス仙台キャンペーン事務局 Hisaya

Googleプレイス仙台営業中!では、携帯電話でタッチするだけで、簡単におみせにクチコミが残せる試みを仙台で展開中です。


琉球cafeぐすく


ビストロ・ココット

これは、NFC ( FeLica ) の機能を利用したもので、FeLica 機能がついた携帯電話でタッチ人形が持っている看板にタッチするだけで簡単におみせのクチコミや評価を残せるようになっています。
更にクチコミや評価をすると、おみせを探している時にそれらの情報を元に好みにあった新しいおみせをオススメしてくれます。

また、携帯電話でパソコンでご利用の Google アカウントと同じアカウントでサインインをしておくと、クチコミや評価をパソコンでも共有できます。

仙台では約 60 件のおみせにタッチ人形が 8 月末までいます。
この地図にタッチ人形がいるおみせを表示しています。お近くにお寄りの際は是非タッチしてコメントを残してみて下さい。


より大きな地図で タッチ人形のいるおみせ を表示





2011年8月9日火曜日

仙台の横丁代表格「壱弐参(いろは)横丁」

Posted by 関口幸希子

Google プレイス仙台キャンペーンブログでは、仙台で若手起業家やサラリーマン、OL、学生などが世代や業種を超えて集える自由な「アジト」を運営し、新たな価値やニュースの創造を促進・サポートを行っているNPOファイブブリッジ様にご協力頂き、仙台から様々な情報をお伝えしていきます。

今回は、関口幸希子様に仙台の横丁代表格「壱弐参(いろは)横丁」てついてご寄稿頂きました。




青葉通りと南町通りをつなぐアーケード「サンモール一番町」からひょいと横道へ。壱弐参(いろは)横丁の愛称で呼ばれる2本の通りには、100店ほどがひしめきあうように軒を連ねています。仙台にいくつかある横丁の中ではエリアが広く、中には焼き鳥屋さんに韓国料理、イタリアンに居酒屋あり、バーあり、カフェもあり。洋服や雑貨のお店も数多くバラエティー豊か。年代問わず楽しめる、新旧入り混じったごちゃまぜ感が何とも魅力です。
通りに屋根があるため、昼間でも薄暗いのですが、それがまた路地裏に迷い込んだワクワク感を誘います。最近は、レトロブームもあって、仙台を舞台にした伊坂幸太郎さん原作の映画のロケ地にもなるなど、注目を集めました。

戦後の焼け野原で自然と立ち始めた市場が、1946(昭和21)年、「仙台中央公設市場」として開設したのが始まり。「ここに来れば何でも揃う」といわれ、物資の乏しかった町と暮らしの復興を支えました。
今回の震災でも、ライフラインが復旧せずに多くの店が休む中、いろは横丁の飲食店は直後から半数近くが店を開けました。お惣菜を安く売ったり、近くの避難所におにぎりやトン汁の炊き出しをする店もありました。「できる店は、少しでもお客さんの役に立つよう店を開けるようお願いしました。互いに米を融通しあうなどお店同士で協力しあってね。ここはみんなたくましいわよ」(中央市場商業協同組合理事長の荒井美和子さん)。水の出ない間、昨秋に大学生のデザインで生まれ変わった手押しポンプのある井戸が多くの人を助けました。

さて、飲食店は、カウンター中心の店が多いので、少々入りにくいかもしれません。
でも隣の人と肩がふれるような狭い店内では、初めての人も気が付けばみんなの笑いの輪の中…なんてこともしばしばです。料金もリーズナブルなお店が多いせいか、毎日通う常連さんも多くや横丁の店をはしごするお客さんもよく見かけます。
気軽にふらりと立ち寄り、ちょっとした会話やふれあいを楽しめるのが人をひきつけているのかもしれません。通りを歩くと、そこここから今日も笑い声が響いてきます。
仙台は「緑のきれいな整った街」というイメージだとよく聞きますが、それだけではありません。一歩踏み込めば、昭和の香り漂う横丁のようなディープな場所がある。街の懐の深さと人情を感じられると思います。


より大きな地図で 仙台の横丁代表格「壱弐参(いろは)横丁」 を表示

2011年8月5日金曜日

ピンに聞いてみよう!のこと

Posted by 面白法人カヤック 瀬尾浩二郎

"仙台営業中!でかけよう。Googleプレイス" にある秘密の装置が出展されています。
先週末に仙台駅で撮影された以下の写真をご覧下さい。


これは "ピンに聞いてみよう!" という Google プレイスと Android の技術を駆使した道案内システムです。「駅にある駅周辺の地図版を Google の技術でもっと便利にできないか?」という思いつきから、今回実験的に開発されたシステムです。

操作卓のマイクに向かって店名や "ずんだ餅" など探しているキーワードを告げると、仙台駅周辺から検索されたプレイス情報が表示され、駅からの道筋を調べることができます。更にQR コードや、FeliCa に対応した携帯でタッチすることでユーザのモバイルデバイスにプレイスページを転送し、その地図をたよりにお目当ての場所に行く事ができます。


ここから専門的な話しになるのですが、技術情報を少々ご紹介致します。
左手の操作卓を空けてみましょう。


中に Android のタブレットと NFC (FeliCa) のタッチセンサーがつながれています。Android と NFC のタッチセンサーは IOIO という Android と外部デバイスをつなげる装置が使用されています。IOIO はタッチセンサーの裏側に接続されており、IOIO から USB ケーブルがタブレットにつながっています。この Android と NFC の連携システムは、グーグル株式会社 Gregor Hohpe 率いる NFC チームにより開発されました。柔軟に開発できる Android ならではの、外部デバイスを利用した事例です。

またピンも良く見てみると、、


LED で顔文字が表示されています。顔文字以外にもテキストにてメッセージを表示してくれるなど、ピンに愛着をもってもらえるようロボットのような演出をしてみました。なかなか、かわいい仕上がりになっています。

8/5 〜 8/8 の仙台七夕まつり期間中も、仙台駅ペデストリアンデッキブースにて、半屋外向けの液晶ディスプレイを使用したバージョンにて公開する予定です。ぜひ仙台に来られる方は試してみてくださいませ!

2011年8月4日木曜日

特別な夏に願いを込めて「復興と鎮魂」を祈る仙台七夕まつり

Posted by 仙台七夕まつり協賛会


仙台七夕は、古くは藩祖伊達政宗公の時代から続く伝統行事として市民に受け継がれ、今日では、日本古来の星祭りの優雅さと、飾りの豪華絢爛さを併せ持つ日本一の七夕まつりとして全国にその名を馳せております。

元々星に願いを託すお祭りである仙台七夕まつりですが、本年は「復興と鎮魂」をテーマに、仙台・宮城そして東北全体の復興を願うお祭りとして開催し、期間中も「星に願いを」という七夕の原点に立ち返った企画を多数ご用意しております。

定禅寺通グリーンベルト内には日本国内をはじめ、世界各地より届けられた短冊や折り鶴が飾り付けられるほか、仙台市内の小中学生約8万人の思いを結集した手作りの七夕飾りも掲出されます。また、WEB上からも世界中の皆さまの願いごとを集めております。

そして「七夕おまつり広場」(会場:勾当台公園市民広場)では、七夕気分を味わえる体験コーナーをご準備しています。伝統の七つ飾りを中心とした仙台七夕の手作り体験コーナーや願い短冊書きコーナー、さらに伝統芸能や音楽隊による演奏等、市民や観光客の方々に楽しんでいただくステージイベント等も実施いたしますのでご来場の際は是非お立ち寄り下さい。

これまでに、全国から励ましのお言葉など多大なるご支援を頂戴しております。それに応えるためにも七夕まつりの熱気を通して、仙台の元気な姿を全国に発信して参りたいと思います。

仙台商人の心意気を示す七夕飾りを多くの皆様に見ていただきたいと思いますので、お誘い合わせのうえ是非「仙台七夕まつり」にお越し下さい。

2011年8月3日水曜日

知域を創る市民大学「センダイ自由大学」

Posted by 「知域を創る広告会社」 株式会社創童舎 メッセージプロデューサー 野原昌之

藩政時代には「養賢堂」という藩の学問所が生まれた杜の都・仙台は、古くから学問が盛んな土地柄でした。高い教育水準を誇り、仙台藩からは、林子平、大槻玄沢、高野長英などの要人も輩出されています。

また緑と四季の彩りに満ちた街並みからは、詩人や作家も多く生まれています。「荒城の月」の作詞者である仙台出身の土井晩翠が晩年を過ごした旧邸・晩翠草堂があったり、中国の文豪の在仙時代の面影を偲ぶ魯迅の下宿があったり。島崎藤村も杜の都のみずみずしい感性にインスピレーションを得て日本近代詩の金字塔「若菜集」を残しています。仙台は、「学」と「知」と「文化」が息づく、まさに「学都」と呼ばれるに相応しい街です。

この学都・仙台の地には、市民が自由に参加できる市民大学「センダイ自由大学」があります。
地元&生活者発想キャンパスということで、様々な暮らしに根付いた「知」を得る場づくりを行っています。
例えば新しい宮城のお酒の飲み方を考える日本酒の講座、仕事帰りに気楽に体験できる落語の講座、海外で活躍されている方に新しい「知」をお聞きする国際人カフェなど多彩な市民講座を展開しています。
「学ぶ・つくる・つなぐ・育む」をテーマに、市民の皆さんの「あったらいいな」を授業にしながら、参加する人はもちろん、企業も自治体も学びながらステージアップしていくことを目指しています。

新しいネットワークづくりにも力を入れていて、「東京センダイ自由大学」を開催し、「手みやげ講座」など地元仙台の魅力を楽しみながら学んでもらおうという取り組みも始めています。

カフェであったり、横丁であったり、街のあらゆる場所がキャンパスになる「センダイ自由大学」。その活動のベースとなるのは、「芭蕉の辻」の近くのソノベビルの地下教室。仙台城下の町割の中心地だった場所であり、東西南北へ広がる道の交差する基点だった「芭蕉の辻」から、新しい街の可能性が広がっています。




赤:過去にセンダイ自由大学が開講された場所
紫:本文に登場する場所
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2011年8月2日火曜日

南染師町の歴史

Posted by 永勘染工場 永野 仁輝(まさき)

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今回は、永勘染工場 永野仁輝様に「南染師町の歴史」ついてご寄稿頂きました。




■南染師町の発祥
伊達政宗には、青葉山への居城移転に合わせ仕えた様々な職人衆がおりその中には染師6名が含まれおりました。当初、広瀬川のほとり霊屋下(おたまやした)にて染物の製作を行っていましたが、政宗が70年の生涯を終えると遺言により瑞鳳殿を建築、霊下屋にいた染師は七郷地区の農業用水路として作られた七郷堀の水流を利用するため集団で現在の南染師町に移り、製作を行ったのが始まりとされ現在同地域には南鍛冶町や穀町、畳屋丁、石切町など当時の生活に密着した城下町の町名が数多く残っています。

■南染師町の現在まで
大正から昭和の戦前の南染師町には染物屋が約20軒ありその他にも染め製品に関連する型屋さんや下絵屋さん、仕立屋さんなど多くの人々が住んでいましたが、戦中に営業が出来なくなり、転廃業する工場も多かったようです。戦後から高度成長期にかけ活気を取り戻したものの、現在の南染師町には戦後移った弊社を含め、染物屋が2軒残るだけとなりました。



■永勘の歴史
明治20年(1887年)
永勘染工場は染物職人だった初代永野勘兵衛が独立し元荒町(現在の仙台市青葉区一番町二丁目)辺りに開業し藍染めの半纏などを製作する。
昭和20年(1945年)
二代目永野勘之助は仙台空襲により仙台中心部が焼失の為営業拠点を現在の南染師町に移す。当時は戦後の復興にともない大工さんや左官さんなど様々な業種の作業服として半纏や帆前掛けを取り入れられた事で注文が殺到した。
三代目永野光男は飲食店の顔となる暖簾の製作の他、漁業の発展に伴い漁船の造船が盛んになり大漁旗の製作を数多く行った。また、染め職人としての技術が認められ昭和60年(1985年)に仙台市より技能功労賞を受賞。
現在四代目永野仁は自社ホームページによる染め製品の販売を導入。
南染師町から全国にのれんや手ぬぐい他各種染め製品をお届けしています。
3.11の震災一週間後3.18より地域復興・復活を願ってチャリティ前掛けの製作をしています。

■今後について
南染師町の染物屋として町名と一致する職業に就いている事は先人の染め職人たちが築き上げてきた伊達の染文化を引き継ぐ数少ない存在であります。
その染めの文化の火を消すことなく、維持発展する事がこれからも必要であると考えています。



赤:霊屋下(おたまやした)
緑:南染師町
青:永勘染工場
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2011年8月1日月曜日

第42回仙台七夕花火祭 『絆~笑顔の輪を未来へ~』

Posted by 公益社団法人 仙台青年会議所 2011年度 副理事長 茂木宏友



仙台七夕花火祭は、今年で42回目を迎える伝統の花火祭です。

今から42年前の1970年に、主催者である仙台青年会議所が、東北三大祭のひとつである仙台七夕まつり(8/6~8/8)の前夜祭として企画したのが始まりです。

当時は300発の打上花火であり、現在と比べるとささやかな花火でしたが、仙台を元気にしようという青年会議所メンバーの気概が、脈々と受け継がれ、多くの市民の皆様に仙台の夜空を彩る夏の風物詩としてお楽しみいただいております。

全国的に見ても、市街地に近い場所で幹線道路を封鎖し車道を観覧エリアとして解放するなどして、これだけの規模の花火を打ち上げる例は珍しいと思います。

今年は、東日本大震災が発生し、例年通り花火祭を開催できるかどうか危ぶまれましたが、このような年だからこそ、被災地から復興のシンボルとして花火を打ち上げたいという想いと、多くの市民からの花火を開催してほしいという声を受けて、例年通りの規模で開催を決定いたしました。

被災地の支援をしていただいた皆様への感謝し、被災地である仙台・宮城に住む人々が笑顔で復興への第一歩を踏み出すために『絆~笑顔の輪を未来へ~』をテーマに16,000発の花火を夜空に咲かせます。

主催者の青年会議所のメンバーは、地域の若手経済人の集まりで、全員が他に自身の仕事を抱えながら活動をしております。多くの市民ボランティアの皆様にも街頭募金や清掃活動にご協力いただき、また地元企業からは、運営資金の大半のご協賛をいただきながら例年開催しております。

そのように市民に親しまれ地域に根ざした花火祭ではありますが、今年は、震災の影響もあって、運営資金がまだまだ不足しております。公式ホームページにてご協賛の協力について掲載しておりますので、全国の皆様からのご支援を切にお願いしたいと思います。

日時 2011年8月5日 19:15~20:45
場所 宮城県仙台市青葉区桜ケ岡公園
主催  公益社団法人仙台青年会議所
仙台七夕花火祭公式ホームページ
http://www.sendai-jc.or.jp/hanabi2011/


2011年7月31日日曜日

錦町公園・ジャズフェスでの純米酒バー

Posted by MJSC(宮城純米酒サポーターズクラブ) 代表 早坂久美

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今回は、MJSC(宮城純米酒サポーターズクラブ) 代表 早坂久美様に定禅寺ストリートジャズフェスティバルで出店している「純米酒バー」ついてご寄稿頂きました。



“宮城の日本酒が好き!”、“宮城の日本酒の美味しさをもっと色々な人に知って欲しい!”そんなシンプルな想いから、私たちMJSC(宮城純米酒サポーターズクラブ)は4年前に発足しました。
ベースになっているのは、仙台市内で活動する3つの日本酒愛飲家サークル。普段は蔵見学に行ったり、日本酒を楽しむ会を開くなど個々に活動を続けながら、1年に一度「定禅寺ストリートジャズフェスティバル」に、2日間限定の日本酒専門店「純米酒BAR」を出店しています。
この「純米酒BAR」、最大の特徴はサポーター視点による企画・運営だということ。酒販店でも飲食店でもない、「飲み手」の立場だからこそ伝えられるメッセージを大切にしたい。そして仙台市内が音楽一色に染まる野外音楽祭という最高のロケーションの中で、“日本酒との出会いの場を創る”、 これが一番の狙いです。

スタート当初は「本当にお客さんが来てくださるのか…。」と不安だらけでしたが、回を重ねる毎にリピーターの方々が増え、「このお店を楽しみにジャズフェスに来たんですよ。」そんな声を数多く頂けるようになりました。
県内蔵の様々なお酒を1コイン500円で楽しめる利き酒セットや、オリジナルの日本酒カクテルも、人気の秘訣です。
会場は青葉区本町の錦町公園。今年も9/10(土)・11(日)の両日、11:00~18:00までオープンします。(雨天決行) カレンダーに定禅寺ジャズフェスティバルを追加する。
イベント当日は、宮城の日本酒を愛してやまないサポータースタッフ達が、お揃いのTシャツで皆さんをお迎えしますよ。

ジャズフェス期間中は、錦町公園で「宮城の日本酒LOVE」を叫ぼう!
お待ちしております♪




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2011年7月30日土曜日

「仙台ラーメン最前戦!」

Posted by アリティーヴィー 制作 小野大徹

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今回は、仙台のラーメン店を120軒以上取材したアリティーヴィー ディレクター小野大徹様に仙台のラーメン事情についてご寄稿頂きました。

天下一品

「冷やし中華はじめました」うだる暑さの中、砂漠のオアシスのように輝くラーメン屋さんののぼり旗。
冷やし中華発祥のここ仙台は独自の麺文化を歩んでいます。なぜなら仙台にはご当地ラーメンというものが無いからなのです。
「ご当地」という枠にとらわれず、お店それぞれが自由な発想で、かつ流行も取り入れ、独自の探求した味を提供し続けているのが仙台のラーメン事情なのです。
魚介系、動物系、二郎系、淡麗系、創作系、更には某有名ラーメン店の仙台進出により、つけ麺ブームも激化!札幌ラーメンに始まり沖縄そばまで。

仙台では多種多様なラーメンが楽しめるのも特長の一つなのです。
例えば九州の白濁したトンコツラーメンは東北人にとってはクセが強すぎるため、一切の臭みを取り除き非常に食べやすくなっているのが仙台の「九州ラーメン」なのです。

こってり濃厚で全国的にも有名な天下一品ラーメン。実は仙台だけが、地元製麺所の麺を使ったオリジナルで仙台でしか味わえない天下一品ラーメンだったりと、お店それぞれが細かい所にまで気を使い、味の探求に切磋琢磨しているのです。
また、ここ1年以内ではお隣山形県の有名ラーメン店の出店も相次ぎ、仙台VS山形の競争も激化!現在も山形ラーメンの勢いは増すばかり!

しかし、3月11日の東日本大震災によって、お店が津波で流されたり、地震の被害で移転や閉店を余儀なくされたラーメン屋さんも多くあり仙台のラーメン競争は一旦沈静化すると思われましたが、震災後、続々と新店がオープンし、被災したラーメン店も復興をとげ、仙台のラーメン競争はまだまだとどまる所を知りません。
五福星みずさわ屋おり久とがし久兵衛本竈たいらんなど行列の出来る人気店はもちろん、自分の舌でお店を探す事が仙台のラーメンを堪能する一番の方法なのかもしれません。

「仙台 ラーメン」での検索結果

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2011年7月29日金曜日

福祉のまちづくり発祥の地としての仙台

Posted by ゆにふりみやぎ 運営責任者 伊藤清市さんです。

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今回は、ゆにふりみやぎ 運営責任者 伊藤清市様に「福祉のまちづくり発祥の地としての仙台」ついてご寄稿頂きました。

ゆにふりバリアフリーマップ仙台市街地編 を地図で表示

1960年代後半、高度成長期の影で公害問題が噴出し、トップダウンの都市計画からボトムアップのまちづくりが叫ばれてきた頃、仙台では「みんなと同じように街に出たい!」という障害者自身の声が介助者や支援者を巻き込み、店舗や公共施設の入口に簡易スロープを敷設する「福祉のまちづくり」運動が始まりました。

この取り組みは瞬く間に全国に波及し、1973(昭和48)年、全国の車椅子ユーザーが一同に会する「車椅子市民全国集会」が開催。同年仙台市は厚生省(当時)から全国初の「身体障害者モデル都市」に指定されるなど、障害者を主体とした住民が国をも動かした歴史として、仙台は「福祉のまちづくりの発祥の地」と呼ばれるようになりました。

平成以降、ハード面においては高齢社会の到来や科学技術の進歩と同時に、「ハートビル法」や「仙台市ひとにやさしい福祉のまちづくり条例」に代表される法的整備がなされたことが大きいでしょう。一方、ソフト面では2001(平成13)年に開かれた宮城国体と第1回全国障害者スポーツ大会でスローガンになった「バリアフリー国体」が県民の心に響き、成功に導いたことが記憶に新しいと思います。両大会では、チャレンジドパートナーと呼ばれる方々が来県された方々をもてなしホスピタリティの充実が図られたとともに、現在に続く「とっておきの音楽祭」が誕生しました。

そして国体から10年。当時まだまだ脆弱だったネット環境で試行錯誤しながらバリアフリー情報発信していた私たちも、飛躍的に使いやすくなったネット環境の恩恵を受け、発信はもとより、外出先からも簡単にバリアフリー情報を手に入れる
ことができるようになりました。今後も先人たちが培ってきた「福祉のまちづくり発祥の地」の名に恥じないよう、新陳代謝する仙台のバリアフリーの現在を発信し続けていきます。

ゆにふりみやぎ http://www.uf-miyagi.jp







仙台を代表するバリアフリー施設 せんだいメディアテーク

2011年7月28日木曜日

仙台の工芸品「玉虫塗」

Posted by 東北工芸製作所 代表取締役 佐浦 康洋

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今回は、東北工芸製作所 代表取締役 佐浦康洋様に仙台の工芸品「玉虫塗」についてご寄稿頂きました。


【玉虫塗の特徴】
銀粉と漆の塗りを重ねることで生まれる玉虫のような輝きから玉虫塗と呼ばれており、漆器が盛んな日本の中でも独特の輝きをもっています。
その独特の輝く塗りの技術により海外での評価が高く、マッカーサー元帥夫人も訪れています。

【玉虫塗と東北工芸製作所】
東北工芸製作所は、商工省工芸指導所と東北帝国大学金属材料研究所とが協力して昭和8年に仙台市に創設しました。昭和14年に玉虫塗りの特許の使用権を取得して以来、仙台を代表する工芸品として玉虫塗りの生産を行っています。

昭和初期の設立の背景と目的には、日本の工芸を近代化し、発展させて「輸出振興」と「東北の産業発展」を目指していました。今の言葉で置き換えれば、起業家であり、創業ベンチャー事業であり、地域ブランド開発と同義の事業だと言えるでしょう。
「玉虫塗」は「塗る技術」です。何にでも塗れるため、現代に調和したコラボ商品を増やすことができます。

【先端技術との融合】
先端技術は支えられた近代的産業と拮抗しながら、変わりつつある生活行動様式の中での新たな利用価値を開拓し、人々の生活時空間の中での最適ポジションを探っていくことが求められています。
そのためには積極的に新用途の開発を目指し、新たな形態や機能の創出により、今日のニーズに応えていく必要があります。その中で伝統的な技法を守りながらも、新製品の開発を探求していきたいと思います。

震災以前も震災後も同様に変わりなく、地元の素材や人のつながりを大切に、この伝統の技法を守り続けてまいります。
仙台市内中心部にこの玉虫塗のショールームを開いています。ぜひ、お気軽にお立ち寄り下さい。

東日本ビジネス支援サイト:宮城県の玉虫塗

2011年7月27日水曜日

藩政時代から続く町人町「御譜代町」

Posted by 和醸良酒〇たけ 店主 石山健英(たけふさ)

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今回は、和醸良酒〇たけ 店主 石山健英様に「御譜代町」ついてご寄稿頂きました。

大町
日本銀行仙台支店側

伊達 62 万石の城下町、「杜の都」仙台。
自然と歴史が色濃く残るこの街には、御譜代町(ごふだいまち)と呼ばれ、人々が息づく下町が存在する。
藩政時代から続く町人町、現在の大町、肴町、南町、立町、柳町、荒町の 6 町である。

肴町
肴町公園内

南町
NTT東日本宮城支店青葉通ビル側

立町
立町小学校前

柳町
柳町通り 柳町大日堂前

荒町
荒町通り

私はこの御譜代町に縁があるようで、奥州街道沿いの「荒町」に住み、青葉城址に程近い「大町」にて江戸の煮売り屋を模した酒場を構えている。
半ば愛着とも思える、これらの町並みが織り成す居心地の良さはどこから生じてきているであろうか。そこにはきっと何かしらの魅力があるに違いない・・・。

御譜代町の歴史は古く、米沢(山形)を居城としていた伊達家が、1590 年に岩出山、1601 年の仙台 開府と、本拠地の移転の度に従事してきた 6 町が、割り出しされたことに始まり、総じて伊達御供(だておとも)とも称されている。

そのため、御譜代町は仙台城下 24 ある町人町の中でも上位に町列が位置づけられ、藩からの木綿や絹布、油、穀類など個別の専有特権を得 て、6 町は商人・職人町的な特性を帯びながら、藩政期の仙台を代表する商業の中心地としての繁栄を見せていた。

明治期に入り、この経済特権は全廃されるも、戦前までの御譜代町は仙台城下の威風を伝える商業地区として賑い、1945 年 7 月 10 日の仙台空襲と、その後の 戦後復興による都市整備によって転機を迎え、現在のような主要道路をつなぐ小規模な商店街や業務ビルが立ち並ぶ姿に変えていく。

しかし、時代による栄枯盛衰はあっても元来御譜代町は目的が持って創られた町であり、また人々の活気と交流が構築・保持してきた町並みである。
少なからず商店・職人の性格を今日に残しつつ、今も古き良き仙台を伝える町としての役割を担っている。
私の御譜代町への愛着も「人」をつなぐ「和」を育んできた、この町の普遍的な特異性にあるのかもしれない。

『月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也』を体言する如く、御譜代町を行きかう人々の交流は今日も静かに歩み出す。


赤:大町
黄:肴町
青:南町
緑:立町
紫:柳町
橙:荒町
より大きな地図で 御譜代町 を表示

2011年7月25日月曜日

「学都」仙台と東北大学

Posted by 東北大学文学研究科 加藤諭


現在放送大学宮城学習センター
(元理学部生物学教室)1924 年( 大正 13 )


















【「学都」仙台に日本で三番目の帝国大学設立】
仙台は、明治以来、公立の学校のほか、多くの私立学校が設立され、高等教育機関としては第二高等学校、東北帝国大学(現東北大学)が設置されるなど、東北有数の教育研究拠点として「学都」仙台と通称されています。「学都」の呼称は明治期半ばより使われていたようですが、東京帝国大学、京都帝国大学に次ぐ日本で三番目の帝国大学として、東北帝国大学の設立が確定されたのは、1907 年( 明治 40 )に勅令によってでした。東北帝国大学として、仙台には理科大学が置かれることとなり(東北帝国大学は当初札幌農学校を前身とした農科大学も含まれていました)、4 年後の 1911 年、数学・物理・化学の三学科でもって入学式が挙行されました(地質学科が後に開講)。



東北大学史料館
(附属図書館) 1924 年( 大正 13 )
現在東北大学の本部棟
(元理学部化学教室)
1927 年(昭和 2 )、1935 年(昭和 10 )














片平キャンパスの近代建築】
東北帝国大学は理科大学開講以降、片平の敷地内に次々と建物を建築していきますが、これは当時仙台では珍しい鉄筋コンクリート造の建物が多く、こうした近代建築は今回の東日本大震災で被害を受けましたが、震災に耐え現存しています。1924 年( 大正 13 )に建設された理学部生物学教室は、現在放送大学宮城学習センターとなっており、同じく 1924 年に建設された附属図書館は現在東北大学史料館として活用されています。また 1927 年(昭和 2 )、1935 年と 2 期に渡って建設された理学部化学教室は、現在東北大学の本部棟として今に至っています。このほか、魯迅が学んだ階段教室や考古学収蔵庫など、仙台に残存する近代建築の約半分は片平キャンパスにあるほどです。

【緑豊かな東北大学】
現在、東北大学はこの片平キャンパスのほかに、青葉山や川内、星稜、雨宮といったキャンパスや付属施設がありますが、東北大学は植物園を有しているように、いずれのキャンパスも緑豊かで落ち着いて研究活動が出来る環境にあります。元来仙台は「杜の都」として都市環境と自然環境の調和が図られてきました。仙台の環境そのものも教育・研究拠点としての「学都」を育んできたとも言えます。


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2011年7月24日日曜日

仙台駅にオススメの場所ポスター貼られています。

Posted by Google プレイス 仙台キャンペーン事務局 Hisaya

ガチャピン・ムック 彦いち

仙台七夕祭の応援キャラクターを務めるガチャピンとムックや、さとう宗幸さん、元ベガルタ仙台の千葉直樹さん、仙台出身のモデル葛岡碧さんをはじめとする8人の方が仙台のオススメの場所でピンと一緒に撮影したポスターが、JR仙台駅2階東西自由通路と、地下鉄仙台駅北口改札付近で貼られています。

このポスターのQRコードをお持ちの携帯電話で読み取って頂くと、それぞれの方のその場所と仙台についてのインタビュー動画をご覧頂くことが出来ます。
ポスターを見つけたら是非動画もお楽しみ下さい。

さとう宗幸さん おでん三吉
葛岡碧さん ココリーネ
半沢武志さん 定禅寺通り
千葉直樹さん ユアテックスタジアム仙台
村上志乃さん ムーンストラック
花坂椎南さん せんだいメディアテーク
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2011年7月22日金曜日

近代仙台の街並の形成と百貨店

Posted by 東北大学文学研究科 加藤諭

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今回は、東北大学文学研究科の加藤諭様に「近代仙台の街並の形成と百貨店」について寄稿頂きました。




















【芭蕉の辻から東へ】
現在、仙台城大手門跡階櫓があるところは仙台城址の入口となっていますが、ここにはかつて仙台城大手門がありました。ここから東に、大橋を抜けて西公園を横目に信号を渡ると大町の通りにつながります。この大町と奥州街道、現在の国分町通りとの交差点は芭蕉の辻といって、江戸時代以来、経済の要衝となっていました。明治の初め頃には芭蕉の辻には、茶・砂糖商の若松屋をはじめ、履物・傘商、金物商、呉服商などが軒を連ね、その後も観工場という商業施設が店舗を構えるなど商業の中心として栄えます。しかし明治に入って仙台駅が出来ると、商業の中心はそれに引っ張られるようにより東へ移っていくことになります。その動きに拍車をかけたのは、現在地元の百貨店として名をはせる藤崎の移転でした。





















【藤崎の移転】
藤崎は江戸時代から続く商店で、百貨店業をはじめる前は呉服・太物を商っていましたが、1896年(明治29)呉服店舗を大町二丁目(現在、和風居酒屋の「○たけ和醸良酒」がある辺り)から、現在立地している大町五丁目に移転します。移転開店時は深夜1時より行列が出来たといいます。同じ大町五丁目に立地していた大内屋や佐々重なども当時の高額納税者に名を連ねており、商業の中心地が移動していったことがうかがえます。





















【三越進出で飛躍した東一番丁】
このように仙台駅に近い、大町の東側が商業地として発展していったことに加えて、南北に通る東一番丁が現在のように仙台の顔ともいうべき繁華な商店街となった要因の一つは1933年(昭和8)三越の仙台進出でした。この三越仙台支店設置の前年、藤崎は鉄筋3階建ての新館を落成、本格的な百貨店となっており、この結果、戦前には仙台に2つの百貨店が登場することになります。北の定禅寺通に近い三越と、南の多聞通(現在の南町通、青葉通は戦前にはありませんでした)に近い藤崎は東一番丁で南北に結ばれており、百貨店を挟んだ東一番丁は繁華街としてより大きく発展していくことになり、今に至っています。


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2011年7月20日水曜日

「杜の都」の由来

Posted by 勝山酒造株式会社 代表取締役社長 伊澤治平


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初回の今回は、仙台の酒造蔵「勝山酒造株式会社」の代表取締役社長 伊澤治平様に「杜の都」の由来について寄稿頂きました。


仙台市といえば、「杜(もり)の都」というフレーズが浮かぶ方も多いのではないでしょうか?
確かに、仙台は東は太平洋から西は奥羽山脈までの東西50キロにわたる広大な市域を有し、豊かな自然風景に恵まれた環境にあります。ですが、「杜の都」と呼ばれるようになった由来は自然林の豊かさからではなく、初代仙台藩主の伊達政宗が奨励した植林活動に起源がありました。

仙台市史によると、政宗が仙台に城を築き、仙台藩を開いたのは1601年(慶長6年)。開拓前の仙台はススキやアシが茂る野原で、都市域の樹木のほとんどは開府後に人工的に植えられたものでした。

政宗は中でも武家屋敷への植林に力を入れました。成長が早いスギやキリなどを植えさせたほか、ナシやカキなどの果樹もあったそうです。いずれも木材や飢饉(ききん)に備えた食料の確保を目的としていました。政宗は有用な樹木の育成を、武士による生産活動の一つに位置付けていたのです。全国の他の藩と比べて仙台藩の屋敷が広かったことも重要なポイントになりました。このほか、政宗は寺社境内への植林も奨励しています。次第に、武家屋敷から城下町外郭の寺社まで樹木が生い茂るようになり、周辺の丘陵地帯や山間部に続いて街全体が緑に覆われる景観を形作っていきました。なお、「もりのみやこ」は明治時代には「森の都」と記されました。大正、昭和の時代に入って「杜」と表されるようになったと言われています。

 ところが、政宗時代から300年以上守られ、育てられてきた街中の緑と都市景観は第2次世界大戦の空襲によりほぼ焼失してしまいます。焼け野原に立った戦後の市民は、再び仙台を緑豊かな街にしたいと、地道に街路樹を植える活動を始めました。数十年の後に成長した木々が、街の顔とも言える風景となった青葉通と定禅寺通のケヤキ並木です。特に定禅寺通の約700㍍は中央にゆったりとした遊歩道を備え、市民の散策コースとしてのほかにジャズフェスティバル仙台光のページェントなどの季節のイベント会場として親しまれています。杜の都はいまもむかしも、こうした人の手による植林や植栽によって緑の色を濃くしてきました。

政宗時代から今に、屋敷林の面影を残す場所もあります。「勝山酒蔵」の迎賓館である「勝山館」庭園と隣接する勝山公園です。勝山公園は大正3年(1914年)、8代目蔵元の伊沢平左ェ門が私邸である勝山館の一部を市民に開放して誕生しました。公園内はケヤキ、カエデ、サクラなどの大木が多く、都市部に残る貴重な空間として近隣の子どもたちや住民に親しまれています。


2011年3月11日の東日本大震災により、仙台市も沿岸部に大きな津波被害を受けました。その爪痕はいまも残り、復旧すらままならない場所が数多くあります。辛い思いで過ごされている被災者も減っていません。ですが、市中心部は大きな被害を免れ、復旧・復興へ向けた歩みを始めています。ケヤキ並木をはじめとする市内の緑が、震災前と変わらずに市民を癒し、明日への希望を与えてくれています。市民が愛する杜の都に、どうぞ足を運んでみてください。


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