2011年7月22日金曜日

近代仙台の街並の形成と百貨店

Posted by 東北大学文学研究科 加藤諭

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今回は、東北大学文学研究科の加藤諭様に「近代仙台の街並の形成と百貨店」について寄稿頂きました。




















【芭蕉の辻から東へ】
現在、仙台城大手門跡階櫓があるところは仙台城址の入口となっていますが、ここにはかつて仙台城大手門がありました。ここから東に、大橋を抜けて西公園を横目に信号を渡ると大町の通りにつながります。この大町と奥州街道、現在の国分町通りとの交差点は芭蕉の辻といって、江戸時代以来、経済の要衝となっていました。明治の初め頃には芭蕉の辻には、茶・砂糖商の若松屋をはじめ、履物・傘商、金物商、呉服商などが軒を連ね、その後も観工場という商業施設が店舗を構えるなど商業の中心として栄えます。しかし明治に入って仙台駅が出来ると、商業の中心はそれに引っ張られるようにより東へ移っていくことになります。その動きに拍車をかけたのは、現在地元の百貨店として名をはせる藤崎の移転でした。





















【藤崎の移転】
藤崎は江戸時代から続く商店で、百貨店業をはじめる前は呉服・太物を商っていましたが、1896年(明治29)呉服店舗を大町二丁目(現在、和風居酒屋の「○たけ和醸良酒」がある辺り)から、現在立地している大町五丁目に移転します。移転開店時は深夜1時より行列が出来たといいます。同じ大町五丁目に立地していた大内屋や佐々重なども当時の高額納税者に名を連ねており、商業の中心地が移動していったことがうかがえます。





















【三越進出で飛躍した東一番丁】
このように仙台駅に近い、大町の東側が商業地として発展していったことに加えて、南北に通る東一番丁が現在のように仙台の顔ともいうべき繁華な商店街となった要因の一つは1933年(昭和8)三越の仙台進出でした。この三越仙台支店設置の前年、藤崎は鉄筋3階建ての新館を落成、本格的な百貨店となっており、この結果、戦前には仙台に2つの百貨店が登場することになります。北の定禅寺通に近い三越と、南の多聞通(現在の南町通、青葉通は戦前にはありませんでした)に近い藤崎は東一番丁で南北に結ばれており、百貨店を挟んだ東一番丁は繁華街としてより大きく発展していくことになり、今に至っています。


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