2011年7月20日水曜日

「杜の都」の由来

Posted by 勝山酒造株式会社 代表取締役社長 伊澤治平


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初回の今回は、仙台の酒造蔵「勝山酒造株式会社」の代表取締役社長 伊澤治平様に「杜の都」の由来について寄稿頂きました。


仙台市といえば、「杜(もり)の都」というフレーズが浮かぶ方も多いのではないでしょうか?
確かに、仙台は東は太平洋から西は奥羽山脈までの東西50キロにわたる広大な市域を有し、豊かな自然風景に恵まれた環境にあります。ですが、「杜の都」と呼ばれるようになった由来は自然林の豊かさからではなく、初代仙台藩主の伊達政宗が奨励した植林活動に起源がありました。

仙台市史によると、政宗が仙台に城を築き、仙台藩を開いたのは1601年(慶長6年)。開拓前の仙台はススキやアシが茂る野原で、都市域の樹木のほとんどは開府後に人工的に植えられたものでした。

政宗は中でも武家屋敷への植林に力を入れました。成長が早いスギやキリなどを植えさせたほか、ナシやカキなどの果樹もあったそうです。いずれも木材や飢饉(ききん)に備えた食料の確保を目的としていました。政宗は有用な樹木の育成を、武士による生産活動の一つに位置付けていたのです。全国の他の藩と比べて仙台藩の屋敷が広かったことも重要なポイントになりました。このほか、政宗は寺社境内への植林も奨励しています。次第に、武家屋敷から城下町外郭の寺社まで樹木が生い茂るようになり、周辺の丘陵地帯や山間部に続いて街全体が緑に覆われる景観を形作っていきました。なお、「もりのみやこ」は明治時代には「森の都」と記されました。大正、昭和の時代に入って「杜」と表されるようになったと言われています。

 ところが、政宗時代から300年以上守られ、育てられてきた街中の緑と都市景観は第2次世界大戦の空襲によりほぼ焼失してしまいます。焼け野原に立った戦後の市民は、再び仙台を緑豊かな街にしたいと、地道に街路樹を植える活動を始めました。数十年の後に成長した木々が、街の顔とも言える風景となった青葉通と定禅寺通のケヤキ並木です。特に定禅寺通の約700㍍は中央にゆったりとした遊歩道を備え、市民の散策コースとしてのほかにジャズフェスティバル仙台光のページェントなどの季節のイベント会場として親しまれています。杜の都はいまもむかしも、こうした人の手による植林や植栽によって緑の色を濃くしてきました。

政宗時代から今に、屋敷林の面影を残す場所もあります。「勝山酒蔵」の迎賓館である「勝山館」庭園と隣接する勝山公園です。勝山公園は大正3年(1914年)、8代目蔵元の伊沢平左ェ門が私邸である勝山館の一部を市民に開放して誕生しました。公園内はケヤキ、カエデ、サクラなどの大木が多く、都市部に残る貴重な空間として近隣の子どもたちや住民に親しまれています。


2011年3月11日の東日本大震災により、仙台市も沿岸部に大きな津波被害を受けました。その爪痕はいまも残り、復旧すらままならない場所が数多くあります。辛い思いで過ごされている被災者も減っていません。ですが、市中心部は大きな被害を免れ、復旧・復興へ向けた歩みを始めています。ケヤキ並木をはじめとする市内の緑が、震災前と変わらずに市民を癒し、明日への希望を与えてくれています。市民が愛する杜の都に、どうぞ足を運んでみてください。


より大きな地図で 杜の都 仙台 を表示

2 件のコメント:

  1. 初めまして!駅でこのポスターを見つけました。仙台の著名な方ばかりで興奮しました。仙台でTVなどで活躍されているお料理愛好家・わかちゃん(http://blogs.yahoo.co.jp/pumpkincookingschool)も登録されているのでしょうか?わかちゃん大好きなので、ポスターがある場所を教えてくださ-い。宜しくお願いします(´∀`*)

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  2. ようこさん
    こんにちは、Google プレイス仙台キャンペーン事務局です。
    ポスターご覧頂きありがとうございます。
    残念ながら今回はわかちゃん様のポスターは作らせて頂いてないんです。
    このページでご紹介している8人の方のポスターを作らせて頂いたので是非ご覧ください。
    http://www.google.co.jp/landing/rebuild/event/sendai/
    ポスターのQRコードからもその方の映像をみることも出来るのでそちらもお楽しみ下さい。

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