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永勘染工場 永野 仁輝(まさき)
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今回は、
永勘染工場 永野仁輝様に「南染師町の歴史」ついてご寄稿頂きました。
■南染師町の発祥
伊達政宗には、青葉山への居城移転に合わせ仕えた様々な職人衆がおりその中には染師6名が含まれおりました。当初、広瀬川のほとり
霊屋下(おたまやした)にて染物の製作を行っていましたが、政宗が70年の生涯を終えると遺言により瑞鳳殿を建築、霊下屋にいた染師は七郷地区の農業用水路として作られた七郷堀の水流を利用するため集団で現在の
南染師町に移り、製作を行ったのが始まりとされ現在同地域には南鍛冶町や穀町、畳屋丁、石切町など当時の生活に密着した城下町の町名が数多く残っています。
■南染師町の現在まで
大正から昭和の戦前の南染師町には染物屋が約20軒ありその他にも染め製品に関連する型屋さんや下絵屋さん、仕立屋さんなど多くの人々が住んでいましたが、戦中に営業が出来なくなり、転廃業する工場も多かったようです。戦後から高度成長期にかけ活気を取り戻したものの、現在の南染師町には戦後移った弊社を含め、染物屋が2軒残るだけとなりました。
■永勘の歴史
明治20年(1887年)
永勘染工場は染物職人だった初代永野勘兵衛が独立し元荒町(現在の仙台市青葉区一番町二丁目)辺りに開業し藍染めの半纏などを製作する。
昭和20年(1945年)
二代目永野勘之助は仙台空襲により仙台中心部が焼失の為営業拠点を現在の南染師町に移す。当時は戦後の復興にともない大工さんや左官さんなど様々な業種の作業服として半纏や帆前掛けを取り入れられた事で注文が殺到した。
三代目永野光男は飲食店の顔となる暖簾の製作の他、漁業の発展に伴い漁船の造船が盛んになり大漁旗の製作を数多く行った。また、染め職人としての技術が認められ昭和60年(1985年)に仙台市より技能功労賞を受賞。
現在四代目永野仁は自社ホームページによる染め製品の販売を導入。
南染師町から全国にのれんや手ぬぐい他各種染め製品をお届けしています。
3.11の震災一週間後3.18より地域復興・復活を願ってチャリティ前掛けの製作をしています。
■今後について
南染師町の染物屋として町名と一致する職業に就いている事は先人の染め職人たちが築き上げてきた伊達の染文化を引き継ぐ数少ない存在であります。
その染めの文化の火を消すことなく、維持発展する事がこれからも必要であると考えています。
赤:霊屋下(おたまやした)
緑:南染師町
青:永勘染工場
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